Top

その日から僕はフォトグラファーになった


小学校の図書館は僕の宝箱だった。見たこともない外国の人、建物、街並……、本のなかの物語に自分の身を置いてみたい、ずっとそんな思いを持ちつづけて、旅に出た。

はじめての旅は、大学3年の1968年。休学してシベリア鉄道経由でヨーロッパに渡り、オンボロ車で約10か月間、北欧からポルトガルまで回った。本で見た世界がそこにあった。もっと見てみたいという気持ちがふくらんできた。大学をなんとか卒業してどうしようかなと思っていたとき、最初の旅で知り合ったアメリカ人の友人から声をかけられ、1971年、卒業式もすっぽかしてヨーロッパに行き、旅の途中で出会ったスイス人のキャンピングカーで約1年間、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンからインドまで旅をした。ありあまる時間をもてあましていた僕は、ときおり思い出したように持っていったカメラを手にシャッターを切っていた。気がつくとほとんどがそこで生活する人の写真になっていた。

絵が好きで、絵描きになりたいと思ったことはあったけれど、フォトグラファーになろうとは思ってもいなかった僕がそうなったのは、帰国後、旅の途中で出会った人々の写真が出版社に売れたから。その日から僕はフォトグラファーになった。人生とはそんなもの!その意味で旅は僕の原点。いまもさまざまな(地球は広いよ!)場所に身を置いて、自分なりの「絵」を探して写真を撮っている。

「旅をしていると、想像もしたことのない風景に出会うことがある。これは絵では描けない世界、現実の世界」


目の高さの三次元

「一匹の蟻が歩いている。一所懸命、碁盤目のタイルの街角を、右に曲がって左に曲がって……。蟻の目の高さと比べれば雲の上くらいの高いところから蟻の歩くのを見て、『タイルを斜めに歩けば速いのに』と思う。でも蟻の目の前には、タイルの壁とその間に広がる路しか見えないんだ……、人間も毎日、目を開けた時からの一日を自分の目で見える範囲の空間で生活し、雑誌のグラビアとかテレビを通して、その日行けなかった所とか、自分のまわりには起こらなかったけど、この地球の表面の何処かで起こった出来事を見て色々と考えさせられたり、想像したりしている。──。

旅をしている時、信じられない所で、たとえば砂漠の真中で人の足跡を見つけたり、実際に人に出会う……というようなことがある。僕の今までの生活から考えると、とてもこんな所では生きてゆけない……と思うけど、この人達は生まれてからずっとこの自然の中での生活で、何不自由なく毎日を過ごしているのだと想像する。

目の高さで物を見て、考えて、生活を営んで、何千年かの歴史を、人間はその土地の風土の中に持っている。見てほしい、目の色や肌の色が違っても、この地球の上に足をつけている限り、みんな、それぞれの目の高さで生きていることを!」(1977年『宝島』6月号より)

これは僕がはじめて雑誌に書いた文の抜粋で、この文と一緒に旅の写真も13点ほど掲載してもらった。それから40年以上が経過し、あのときの牧歌的で絵のように美しかったアフガニスタンは長期にわたる戦禍で荒れ果て、トルコもイランも物騒な国になった。でも、写真を撮るときの僕の気持ちは、このときとまったく同じで変わっていない。

「特別な人」マザー・テレサ


仕事柄、女性雑誌を中心に数えきれないほどたくさんの人のポートレートを撮ってきたけれど、そのなかでも僕にとっての「特別な人」がいる。マザー・テレサ。

僕がマザー・テレサと出会ったのは、彼女が亡くなる2年前の1995年2月、インドのコルカタ(カルカッタ)にあるマザーの教会「神の愛の宣教者教会」でだった。このときも雑誌の仕事で、事前に施設などの撮影許可は得ていたのだが、当日、マザーがその教会にいるとはかぎらず、しかも彼女は大の写真嫌いで有名だった。

けれどもその日、ミサにマザー・テレサがどこからともなく、影のようにふっとあらわれた。思ったより小柄な人だった。世界中から集まった人々がどよめくなか、一人ひとりに声をかけながら彼女が僕に近づいてくる。マザーの姿を間近で撮りたいと思った僕は思わず、目の前に来た彼女に「ミサのときの写真を撮らせてください!」と言っていた。一瞬、マザーの人の心を見抜くような鋭い視線に睨まれた。永遠にも思われた時間が経過したあと、マザーの口から出たのは「よいでしょう」という一言だった。

あとで聞くと、マザーがミサで祈る写真を撮ったフォトグラファーはほかにいないのではないかということだった。僕自身、あのときの緊張の一瞬一瞬を思い出すと、いまでも心が震えてくる。

和紙に挑戦!


現在のカメラはほとんどがデジタルだが、僕の世代はフィルムしかなかった。すぐにその場で映像が見られるデジタルに比べると、フィルムは現像しなければ確認できなくて、撮影時の手間暇も何倍もかかる。そのフィルムがもう過去の遺物になったのかなと思うと、寂しい気持ちでいっぱい。

でも!フィルムで育ってきた僕としては、フィルムでしかできない作品作りにこれからも挑戦しつづけようと思っている。僕にとっていちばん面白いのはフィルムでもモノクロで、暗室でネガを自分で印画紙に焼き付けるところにある。人と違ったことをしたかった僕は、30年ほど前から試行錯誤を重ねながら、和紙に感光乳剤を塗って印画紙を自分で作ることに挑戦してきた(詳しい工程はビデオで)。

これはすべての工程を暗室でしなければいけないのが辛いのだけれど、仕上がりを想像して、和紙に乳剤を塗るときのタッチを変えたりして、絵を描くように自分で自由に遊べるのが大きな魅力!同じネガで同じように焼き付けても、仕上がりはまったくの別物になり、その意味で、和紙での作品は正真正銘の一点物です。

この挑戦は、感光乳剤の日本での製造が中止になったとき、いったん中断したのだが、ドイツで製造されているのを発見してすでに入手。これからまた新たな挑戦が始まることになるけれど、頑張ります!

写画 Picto Photoって?


「僕の作品は写真だけれど何かが違う! 写真だけど絵のように描きたい! ちょっと恥ずかしいけど『写画』と勝手に呼んでます」

「写真はきれいじゃないと!」──これは僕が写真を撮るときにいちばん心がけていることです。写真も絵と同じように考えているところがあるからだと思う。僕としては、僕のなかに「絵」があって、その絵はあくまでも主観的なものだけれど、それを写真で描きたいと思って撮っている。写真が絵と違うのは、一瞬を切り取ること。どこで、どんな出会いに遭遇するかはすべてが偶然のなせる技で、そのときにいちばん重要なのが自然の光。太陽の位置によって光は刻々と変わり、濃淡のある光と影、順光の美、逆光の美……、その美しさをどう取り込むかが僕の仕事だと思っている。とくにデジタルが主流になったいま、コンピューターと格闘して絵のようにしたい、このように描きたいとガンバッテイル!

だから、その思いを込めて写真と絵画を組み合わせた「写画」という造語を勝手につくった。その英語版Picto Potoも自家製の造語です。商標登録をするほどでもないのでしていないが(ちょっと調べてみたら、お役所仕事の手続きが面倒そうなので諦めたのが本当))、この造語を考案してからは、個展の案内にも「写画展」「PICTO PHOTO EXHIBITION」を使っている。見たことも、聞いたこともない人は首をかしげるだろうけれど、勝手な造語なので安心してください。でも気に入ってます。

色をつくるって面白い!


よく僕の作品を見て「この色はどうして出すんですか?」と聞かれることがある。

デジタルになっていちばん嬉しかったのは、コンピューターで色を自由に変えられることだった。フィルムだと、カラーは自分で現像もできず、専門の現像所(これも現在は過去の遺物?)にポンとお願いして、仕上がりの映像をドキドキしながら待つしかない。色が気に入らなくても手直しはできず、撮影時の光の具合や自分の技術のせいにするしかなかった。だからフィルムの撮影では、その場での一瞬の光や偶然の動きにどれほどに神経を使ったものか! この姿勢はいまも変わらないけどね。

デジタルなら色を思いのままにできる!これと思った一枚の写真をコンピューターに落とし込み、それを眺めながら、僕だったらどんな時間(太陽)、季節に描こうか?と、その写真のなかに飛び込んで行く!コンピューターでは、その日そのときの気分によって、極端に言えば朝の色を夕景に、木の葉を夏の緑から秋の葉色に変えることもできる。僕はそこまではしないけれど、操作一つで色がどんどん変わっていく。きりがない。今日はいいと思っても、翌日になるとまた違った色になり、止まらない。それが楽しくて面白い。ある一瞬、これでいいと思うときがある。これを言葉にするのは難しい。それがそのときの僕の色……。

手漉き越前和紙


僕はデジタルのプリントも和紙にしている。このところずっと使わせてもらっているのは、友人に紹介してもらった福井県越前市の和紙屋「杉原商店」の越前和紙。無理を言って漉いてもらっている手漉きの和紙です。タッチが柔らかく、色の出具合も期待どおりで、僕の作品にはぴったりの和紙だと思っている。